なんとなく「田舎暮らし」の定義を考えてみる

去年、2016年の3月末に熊本市から南阿蘇村へ引っ越して、長年の目標だった「田舎暮らし」を開始した。
引っ越しの直後、まだ部屋作りもできていないうちに熊本地震に見舞われた。それでも我が家は幸いにもさほど大きな被害はなく、飲用水の確保など少々の不便を強いられる程度で済んだ。そんな想定外の出来事はありつつも、とにかく田舎暮らしを始めて一年が経った。
春は庭の梅や桜の花を楽しみ、すぐ裏庭まで迫る野焼きの後の牧野は一気に緑に覆われ、長い梅雨の後には夏がやってくる。
我が家は標高600m超の場所にある森の中なので、春から夏にかけては野鳥のさえずりやキツツキのドラミングなど、デシベルで表せば環七沿いに建つマンションと同じくらいのレベルじゃなかろうかと思うくらいの騒がしさに包まれる。もちろんそれに包まれるのは心地よい。真夏でも深夜から明け方にかけてはかなり冷え込むので寝るときは毛布を手放せない。
麓の集落の草刈り作業を手伝ったり、夏祭りの宴席で消防団への入団の勧誘を必死に断ったりしているうちに短い夏はすぐに終わりの気配を見せ、木々の緑が赤く色を変え始めると、森の中でサカりのついたシカが甲高い声を上げる。我が家の屋根の上を安全地帯と見たサルが、どこかから拾ってきた栗の実を貪る。
冬を迎える前に準備していた薪ストーブだが、田舎暮らし一年目の我が家にはまだ薪がない。道の駅やホームセンターへ行けば売ってはいるが、高額のそれを買うのはなんだか癪なので、近くの砂防堰堤に溜まっている倒木を拾ってきて燃やす。乾燥していてよく燃えるが、あっという間に燃え尽きてしまう。
標高の高い我が家の冬は厳しいものだった。朝起きたら結露がガチガチに凍っていて窓が開かないし、昨夜の飲み残しの茶も湯呑みの底で凍ってる。
庭に降り積もった雪には野ウサギやアナグマ、シカやイノシシが縦横無尽に歩き回ったサインが残されている。
100メートル以内の周囲には我が家以外に民家はなく、テーブルソーや電気カンナも騒音を気にすることなく使えるし、工作で出た木っ端はその場でストーブに放り込んで焼却できる。

普段の生活を書き起こしてみれば、一転の曇りもない「田舎の生活」。ところが最近、「田舎暮らし」という言葉の定義がわからなくなってきた。

東京では池袋エリアのとある駅前の飲み屋街の真ん中に建つ古いマンションに長いこと暮らしていた。同じフロアの一室では密かに脱法ハーブが売られ、エントランスから一歩外に出ればキャバクラいかがですかの声が掛かるし、明け方まで酔っ払いの怒号、シャッターに誰かが叩きつけられる音、先輩ホストの説教、一本締め、煙草を吸いすぎたオカマの咳払いが絶えることなく続き、朝には酔客が吐瀉物を残していく。
近くに月極駐車場を借りればどんなに安くても月に2万円は取られるし、大型バイクはおろか自転車一台停めるのにも苦労するような生活だった。

そんな東京での生活から一転、熊本市東区で借りた庭付き一戸建ては、目の前に2台駐車できるしすぐそばに江津湖という熊本市民のオアシスがあり、住宅地ながらも緑に囲まれたのどかな「田舎」にあった。
市内の中心地にある繁華街へ飲みに行くにはバスと電車を乗り継ぐ必要があったし、スーパーやコンビニも歩いていくにはちょっと遠い。便か不便かと聞かれれば、まぁ以前よりは不便になったのだろうけど、それ以上に得るものが大きいし、そもそも田舎暮らしを望んでいたのだから端っことはいえ熊本市内は便利なのである。
そんな熊本市での生活を丸2年経て、南阿蘇村の標高高めの森の中に引っ越した。疑いようのない「田舎暮らし」が始まったと思ったのだが、我が家は田舎といえども車で10分ほど走ればスーパーもホームセンターもコンビニもある。
「南阿蘇村はおしゃれな田舎ですよね」と産山村に住む知人は言う。確かに南阿蘇村には洋風のペンションが立ち並び、雑貨屋だのベーグル屋だの、若い女性が嬌声を上げつつSNSに投稿するための写真を撮りまくるようなオシャレなカフェも多く、週末にはトロッコ列車が走る。それらの店は日が沈む頃には閉まってしまうが特に不便ということはない。

「田舎の生活」というのは、田園地帯だったり山だったり、森の中や湖畔に建つログハウスもしくは古民家、小屋に住み、自給自足とまでは行かないまでも、家で食べる分の野菜くらいは庭の家庭菜園で作って、買い物は週末に一週間分を買い溜めしてストックしておく。
実際に田舎に住んでみるまではそんなイメージを抱いていたものの、住んでみれば毎日スーパーへ買い物に行く。家に帰ってから「あ、ビール買うの忘れた」などと言いながらもう一度行ったりする。東京に住んでいた頃のように、フラリと徒歩で飲みに出かけることは到底不可能になってしまったが、これも不便とは思わない。
《田舎暮らし=不便》ということもないのだろうけれど、車で出かけていて山奥の小さな集落を通ったりすると、「こんな山奥で、ここの人たちはどんな生活をしているのだろう」と考える。おそらく僕が想像する「田舎の生活」を送っているのだろうと思う。

「田舎暮らし」に明確な定義なんてない。山奥や離島での自給自足生活でも、街に近い便利な田舎暮らしでも、自分に合った「程度」を選んで快適な田舎を探すのが一番だと、至極当たり前な結論に至る。