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<熊本地震発生から10日間の行動メモ(前編)はこちら>

県外への一時避難を即断

テントや毛布などを車に積み込んでいると、Aさんが戻ってきた。表情が深刻だ。

「中岳(阿蘇山)が小噴火したみたいです。これは別に地震とは関係ないいつもの噴火だとは思うんですが、余震や山崩れも怖いので、僕は家族を県外へ避難させます」

目と鼻の先に見えている中岳を見上げると、噴煙も見えないしむしろいつもより静かに思える。しかしここは火口から直線で4kmしかない。火砕流に襲われるとは思わないが、噴火が続けば大雨に降灰、土砂崩れで道が塞がれて孤立してしまう恐れもある。日没を待って避難するつもりだったが、予定を早めた方がいいかもしれない。
……いや、別に最寄りの指定避難場所じゃなくても、アテがあるなら遠くへ避難すればいいのか。幸いにもガソリンは満タンにしたばかりだ。
荷物を積み終えて妻に告げる。避難所ではなく、妻の実家がある山口県宇部市へ逃げようと。

13:30。
避難所にテントと寝袋、毛布を置いていく。必要なら使ってくれればいいし、不要なら邪魔にならない場所に置いといてくれれば後で取りに来る。
携帯は相変わらず圏外なので高森警察署で道路状況を聞くと、現時点で北九州方面へ抜けるには高森峠を越え、山都町から国道218号で美里町、宇城市から3号線を北上するルートが唯一だと教えてくれた。救援車両も同じルートを通っているとのこと。

桜の花がまだ残る高森峠を登り、高森峠隧道を抜けてしばらく走ったところで、携帯電話のいろんな通知音が立て続けに鳴り始めた。電波を受信できるところまで来られたようだ。
昨夜から溜まったLINEやらFacebook、ショートメール、電話の着信通知などが100件超。携帯電話が物理的に壊れるんじゃないかという勢い。
車を路肩に停め、とりあえず無事であると返信。集落の区長さんにも「県外へ避難します」と伝える。

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山都町に差し掛かったあたりで、カーラジオから《アンパンマンマーチ》が流れてきた。
怒られるかもしれないけど正直に思ったことを敢えて書く。はっきり言って「センスないな」と思った。「まだ早いだろ」とも。番組パーソナリティーが脊髄反射的に「被災地のリスナーに勇気を!」とか思ったのかどうか知らんけど、僕個人的には東日本大震災を想起させられただけだった。
とはいえこれを聞いた熊本の子供が勇気を得られればそれでいいし、そうであって欲しいんだけど。

熊本市中心部へ入った時、既に16時になっていた。避難場所である白川公園では給水待ちの人が長い列を作っている。
激しい渋滞が続く3号線。九州自動車道の植木インターチェンジを目指す。

思わぬストレスに襲われ、数日間苦しむ

夜。
とにかく3号線の渋滞が酷い。2km進むのに1時間以上かかる。
北区下硯川から西の県道へ離脱。植木インターを諦め、田原坂、玉名を迂回して和水町、菊水インターへ向かう。混雑はしていたものの、あのまま3号線を進むよりはかなりマシだったと思う。
九州自動車道に入ってしまえば混雑もなくスムーズに走れる。とりあえず震源地から離れたことで、余震のストレスや土砂崩れの恐怖から解放されていく。

しかしその一方で、「自分だけ安全な場所へ逃げている」という罪悪感が猛烈に膨らんでいく。今回の震災において、実はこれが一番キツかった。
対向車線を救援車両が勇ましく熊本方面へ向かっていく。自衛隊の特殊車両や、他県の県警のパトカー、物資を積んだトラック。ありがたさと同時に申し訳なさ。何度もUターンしようと思った。

もし自分の家族や友人が被災地にいて、県外に身を寄せる場所があるのなら、迷わずすぐに避難しろと言う。そいつが「でも、みんな熊本で頑張ってるのに自分だけ逃げるなんてズルいし……」なんてグダグダ言ってたら怒鳴ってでも避難させようとする。場合によっては殴る。逃げる場所も手段もあるのに逃げないなんてバカだと思う。
あるいは自分に逃げる場所も手段もなく、隣の人が県外に逃げると言っても全然ズルいとは思わない。早く逃げろと思う。
理屈ではわかってる。十分にわかっているつもりなのだが、実際に自分がその立場になると、「村に残って何かの役に立たないと!」などと考えてしまう。英雄症候群というヤツだろうか。普段はそういうのを「阿呆だなぁ」と思っているのにもかかわらずだ。
ほら、今書いてるこの文章にも自己陶酔感が滲み出てしまってる。ちょっと油断するとこれだ。ホント嫌になるけどもう少し続く。そして自分への戒めのために削除せずそのまま公開する。あぁ恥ずかしい。

前日に水を汲み、ガソリンを満タンにしていたこと、そして避難を即決したことを妻は感謝してくれた。偶然とはいえロケットストーブを使えるようにしてくれていたおかげでおにぎりもホットサンドも作ることができたと。あなたの行動は何一つ間違っていないと言ってくれた。納得はできるが釈然としない。理性と感情が合致しない。
自分でも必死に自己肯定を試みる。僕と妻二人分のスペースと食料が誰かの役にたつかもしれない。置いていったテントも毛布も。最低限のやるべきことはやったんじゃないか。
いや、もっとできたんじゃないか。今から戻ればもっとできるんじゃないか。
でも妻は守らないと。それじゃ妻を送り届けたら、自分ひとりで南阿蘇村へ戻ろう。そうしよう。

義実家に着いたのは深夜だった

深夜。
宇部インターチェンジを降りたのは深夜1時過ぎ。まずは宇部市の中心地にある妻の実家へ。去年から空き家となっている祖母の家を自由に使って良いとのことなので、鍵を受け取りに来た。

「大変じゃったね。私もう寝ちょったけ自分で行って。勝手に布団敷いて寝たらええわいね」

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義母は眠そうな目で鍵を差し出し、寝床へ戻っていった。
この人、というか妻の家族はいつもこんな感じで、至極こざっぱりとした人付き合いをする。これが僕には心地よく、今回は特に救われる思いだった。ここで被災者様扱いされたら却って気を遣い、疲れてしまうところだ。
妻の実家から車で10分ほど走り、祖母の家に到着した。睡眠不足の中、約11時間ぶっ続けで運転していたことになる。
風呂にも入らず、布団を敷いて寝た。祖母の家にある古い布団はサイズが小さくて、足を伸ばすと盛大にはみ出したが、まったく気にならなかった。
長かった一日がようやく終わり、眠りに落ちる。
南阿蘇村に残してきた家の夢を見た。家の目の前の森から背丈10メートルほどの巨人がのそりと現れ、その毛むくじゃらの両手でガッチリと家を掴み、ユサユサと揺らしていた。玄関ドアに残しておいた《避難しました》の貼り紙には気づいていないのか、それとも文字が読めないのか、口元に意地悪な笑みを浮かべていつまでも揺らしていた。

「まきしまち」じゃなくて「ましきまち」だよ
The Aso-Ohashi bridge fallen by a landslip of the 2016 Kumamoto earthquakes.JPG||崩落した阿蘇大橋(2016年4月17日)|Hideki Kimura

Wikipediaより|崩落した阿蘇大橋(2016年4月17日)|(C)Hideki Kimura

4月17日(日)

テレビを見て唖然となる。
国道57号線立野付近の山が崩落し阿蘇大橋が消滅している。すぐ近くのセブンイレブンはギリギリ落ちてない。東に見えているのは数鹿流ヶ滝だろうか。それとも土砂崩れによってできた段差だろうか。地形が変わってしまっていてわからない。
全国区の番組で「益城町」「西原村」「グランメッセ」「河陽地区」「火の鳥温泉」など馴染みのあるローカルワードが連呼されていて不思議な気分。それにしても「マキシマチ」と言い間違えるレポーターの多いこと。
変わり果てた益城の町並み、崩壊した熊本城の石垣と屋根瓦を見て打ちのめされる。宇土櫓が残っているのがせめてもの救い。56年前に再建した箇所は崩れ、400年前に作られた部分が残っているのだ。

「すごいねぇ。私があの世に行ったら、真っ先に清正さんに会って「あんたの技術は凄い!」って褒めとくけ」

食料を差し入れに来てくれていた義母が真顔で放った冗談に少し和む。

深夜、携帯電話で友人たちとやりとり。熊本市内の友人や遠方の友人。
「明日朝イチで、嫁さんを宇部に残して俺ひとり南阿蘇村へ帰ろうと思う」
と言うと、20人中18人が反対した。うち2人に罵倒された。「今は安全な場所で奥さんのそばにいてやれよバカ、クズ、中二病」。

4月18日(月)

「いろんな人に怒られた。俺もしばらくここにいる」
そう告げると妻は心底安心した表情を見せた。
やることもなく晴天。秋吉台までドライブでもしようかとも思ったがそんな気になれず。
去年、祖母が亡くなり空き家となってしまったこの家のことを考える。義両親はお盆が過ぎたら誰かに貸すか売るかしたいらしい。せっかくだから協力しよう。このブログに載せることになりそう。
ていうか義両親がこっちに住めばいいのに。今の家より広いし新しいし快適なのに? と聞くと、場所が不便で面倒だと言う。そんな不便でもないけどな。今の家から車で10分かからないんだけどな。やけに立派な庭の手入れが面倒なこともマイナスポイントらしい。

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んじゃ暇だし草むしりでもやるよということに。
92歳まで生きた祖母よりも15年ほど前に亡くなった祖父が園芸好きだったらしく、とにかく植木鉢の類が多い。数えてみたら100以上あった。中身は全部枯れていたので土を取り除いて鉢をゴミ袋へ入れていく。
取り出した土は庭の隅で山になった。芝生を貼れば築山だ。

4月19日(火)

義父がT字剃刀と缶ビールを買ってきてくれた。
伸び放題のヒゲを見かねてのことだろうが、地震も避難も関係なく、僕は髭剃りが嫌いなので2週間に一回くらいしか剃らない。ただそれだけのことである。
しかしわざわざ買ってきてくれたのだから剃ろうかなと思ったが、やはり面倒なのでやめた。缶ビールは飲んだ。

4月20日(水)

テレビでは毎日、派手に崩れ落ちた阿蘇大橋周辺や熊本城の石垣、益城町の民家、そして家族を失って泣いている人ばかりを映し出す。
もうそれはわかった。しばらくは立ち上がれないほど十分に打ちのめされた。だから他の情報をくれ。なんだそのヘルメットとヤッケは。レポートに必要ないだろ白々しい。やたらに悲劇感を煽られてうんざり。
《悲劇感》と打って変換したら、《ヒゲ期間》となった。今の僕のことだ。

うんざりはするものの、テレビを消すことができずにいる。
やがて《水曜日のダウンタウン》が始まった。久々に笑った。

4月21日(木)

地震後熊本を襲った大雨が止み、自宅がどうなったか気がかり。
特に盗まれるような金目のものなどないが、空き巣に鍵を壊されたり窓を破られるのも困る。
その前に、度重なる余震に耐え切れず崩れ落ちているかもしれないし、土砂に埋まっているかもしれない。
とりあえず家の様子を確認しないと。もうあの家に住めないかもしれない。だとすると早めに次の手を考えて動き出さなければならない。
予報によると、晴れるのは明日だけで、明後日からはまたしばらく雨が続くらしい。

元気な町にくると元気になる

4月22日(金)

寝ていた妻を叩き起こして祖母宅を出発。南阿蘇村の自宅を目指す。
宇部インターから中国自動車道。自衛隊の車両の後ろを付いて走る。トラックの車両後部で向かい合わせに座っている自衛官たちの姿。移動中はあの幌を閉めて横になっていればいいのにと思う。
最後尾の席に座っていた隊員が、僕の車のナンバープレートの《熊本》の文字をじっと見つめていた。

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九州自動車道、植木ICから3号線は大渋滞とのことなので、南関ICで降りて山鹿市〜菊池市〜大津町から益城町、西原村からグリーンロード経由で南阿蘇村へ入るルートを選ぶ。
道中、メロンで有名な七城町や山鹿、菊池の温泉街もびっくりするほど普段と変わらない風景が広がっていて、良い意味で拍子抜けした。
ホテルや旅館は普通に営業しているし、その周辺の飲食店や商店も同様。
避難所生活を余儀なくされている人の中で、余裕のある人はここで何泊かゆっくりすればいいんじゃないかと思う。普段通りの元気な町にくると、自分も幾分か元気になれる。
そしてこれまでずっと僕を苦しめていた「自分だけ安全な場所へ逃げた」という罪悪感からも解放された。
もちろんこの辺りだって揺れただろうし、ダメージが皆無なわけではないと思うけど。少なくとも震源に近い町よりもずっと元気だ。

しかし一番被害の酷かった益城町に近づくにつれ、瓦が落ちてしまった屋根をブルーシートで応急処置した家が目につくようになる。
大津町から熊本空港を通過し西原村へ。普段の最短ルートである俵山トンネルが通行止めなので、グリーンロードへ迂回する。
グランドチャンピオンゴルフクラブ手前の分岐で、《南阿蘇村→》の即席案内板の矢印が右方向を向いている。南阿蘇村へは直進のはずだけど、道が通れなくなっていて迂回の必要があるのだろうか。
右方向は益城町へ降りる道。とりあえず矢印に従って右折した。
2度の大地震と数百回に及ぶ余震によりガタガタになった道路を慎重に走る。
完全に倒壊しペシャンコになってしまった家屋が連なる。テレビで見た惨状が目の前に広がっていた。
この震災に遭って以来、初めて涙がこぼれた。同時に助手席の妻が声を上げて泣き出した。

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道路にいた警備員に聞いたところ、やはりグランドチャンピオンGCの分岐はまっすぐ進むのが正しいルートだとのこと。
舌打ちとともにUターンする。《幸福の黄色いハンカチ》の武田鉄矢のセリフ「ガソリン代損こいた〜!」が頭の中でリフレインする。
グリーンロードに戻り、阿蘇ミルク牧場を通過する。いつもの牧歌的な風景。放牧された馬が草を食んでいる。
展望所の手前、《恐ヶ淵》に入る小道に折れ、ボンジュール・プロヴァンスを横目に久木野へ下りる。南阿蘇村役場久木野庁舎には自衛隊の給水車、電力会社の電源機車や報道の車両が多く停まっていた。
南阿蘇村というのは、平成17年に久木野村、長陽村、白水村が合併してできた村で、今回土砂災害などの被害が酷かったのは旧長陽村。僕の家がある旧白水村では倒壊した家屋もほとんど見られず、地震の前と変わらない風景があった。自衛隊や消防などの災害救援車両が走り回っている以外は。

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さっき益城町で嗚咽を漏らしていた妻に、少しづつ余裕が戻ってきた様子。あそ望の郷の炊き出しが美味しそうだの、モンベルの無料貸し出しテントを使ってみたいだの、明神そばがちゃんとあってよかった、お蕎麦食べたいだのとやたら饒舌になっている。
農道を上っていき、標高650メートルに建つ我が家が見えた。先週、ここから逃げ出した時とまったく同じ姿であることを確認し、妻はまた泣き出した。今度は安堵の涙。
避難する前、その日の夜から大雨との予報だったので、雑用水を確保しようとウッドデッキに出しておいた大きなポリバケツに雨水が一杯に満たされていた。

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ブレーカーを上げると、家の裏に設置してある井戸のポンプが唸り出し、リビングに置きっ放しだったiPadが様々なメッセージを受信する。ネット回線も復旧している。
流しにそのまま放置していた洗い物を妻が片付けている間、僕は家と周囲の様子を確認する。家が歪んだりしている様子はない。サッシの開け閉めもスムーズにできる。
家のすぐ裏の牧野も、遠くの方で少し崩れている部分が確認できるものの、その土砂がここまで襲ってくることはなさそうに見えた。

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もうこの家に戻ってこよう。今日は一旦宇部に戻って、週明けの月曜日に帰ってこよう。
帰ってきて仕事を再開しよう。僕は怪我もしていないし家も失っていない。なるべく早く、地震の前と同じ生活に戻そう。
自分が元どおりにならないと、困っている人の助けにもなれない。
妻はまだ余震が怖いと言う。昼間はいいけど、ここで夜を過ごすのは怖いから、《あそ望の郷》とか広いところの空きスペースにテントを張らせてもらえる所があればそこで寝たいと。
毎年キャンプを始めるのもちょうど今くらいの時期だし、それはそれで楽しそうだねと言うと妻は笑顔を見せた。

なんだかんだで、熊本を出発したのは19時だった。
途中、大津町のヒライで唐揚げとおにぎりを食べ、宇部の祖母宅に着いたのはちょうど日付が変わる頃だった。

4月23日(土)

「水が濁っています!!企業の方!!浄水器を寄付してください!!!」というSNSへの投稿を見てやるせない気持ちになる。
必要なものを伝えるのはいいが、のっけから寄付を要求するのはどうなんだろう。支援物資をたくさんもらって麻痺してるのだろうか。それじゃ物乞いだ。
何より《!》を多用する文は生理的に好かない。でも結構な数の拡散がされているようだ。

4月24日(日)

どんよりとした曇り空。祖母宅を掃除。
義父が置いていってくれたT字剃刀がテーブルに置きっ放しだった。せっかくなので髭を剃る。

4月25日(月)

車に荷物を積み込み出発。金曜日とまったく同じルートで約4時間後に無事帰宅。
つい顔が綻んでしまう。また南阿蘇村で、この家で生活できることが嬉しくてたまらない。まだ余震が残る被災地なのに。
区長さんに電話で帰宅を伝え、最寄りの避難所の様子を見に行く。
暗い体育館の中、毛布にくるまった人が点々と座っている。食料や水、仮設トイレが完備されている。別の避難所にはペット用の救援物資もあるらしい。

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「たった今、停電したんですよ。さっきまで大丈夫だったんだけど」
電力が復旧したとはいえ発電機車での送電なので、そういうこともあるのだろう。
ここへ来る途中、九州電力の職員さんが、雨の中ずぶ濡れになって復旧作業に奔走しているのを見かけた。
《ご自由にお取りください》と書かれたお菓子や水などの支援物資に手をつける気にはならなかった。それらはもう営業を再開したスーパーで買える。うちは家も無傷だし何も困っていない。鹿のトロフィーだって無事だった。

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自宅へ戻りトイレに入る。便座から伸びる電源コードを見て思う。
別に尻なんか温めなくてもいいよなぁと。

(了)



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